「苦しみ」から逃れられたらどんなに楽だろうかと思う人は、多いと思う。生きているといくつもの苦しみに出会い、苦しみから解放されたら、また別の苦しみを経験する。一難去ってまた一難、止まることがなく、いつになったら楽になるのだろうか。

病気や経済的理由、人間関係など、苦しみは精神的な痛みだけではなく身体的痛みも伴う。なぜ、こんなに苦しまなければならないのか。苦しむことに何の意味があるのか。どうしたら苦しみから解放されるのか。

そのような疑問にたいして、苦しみから脱却できる究極の方法がある。それには、まず根本的なところの真実を知ることから始めよう。このテーマは、何回かに分けてお伝えするつもりです。

 

「苦しみ」とは何なのか

生老病死の苦しみを説いたのは、お釈迦様です。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死の苦しみです。まさに、これは人間であることの代表的な苦しみです。しかし、現代、高度に発展した物質社会において様々な苦しみが生まれています。

経済的余裕があれば、欲しい物は何でも手に入れることができますし、時間さえも買うことができる世の中ですが、充分な経済的余裕がなければ、欲しいものも手に入れることができません。

また、病気の時には元気な自分と病の自分を比較して苦しみ、他人を羨ましく思ったりもします。人間関係では他人が自分の思う様にならないことに苦しむことがあるのではないでしょうか。

そのような意味で「苦しみ」とは、満たされない時に起こるギャップの感情のことでもあります。

 

「苦しみ」は欲求からも生まれる

苦しみは、肉体や五感などの欲求からも生まれてきます。

食べる必要があるのは、肉体維持のため。

●頭脳を鍛えるのは、良い学校や良い仕事に就こうとするため。

●奇麗になりたいのは、異性にもてたいため。

●働くのは、それらを満たすためにお金を稼ぐ必要があるからで

人が羨ましい生活をしているのは、自分もしたいという欲求があるからです。

このように、物質的に満たされたい、愛が欲しいと思っている人がほとんどではないでしょうか。

しかし、それらが満たされない時に「苦しみ」がでてきます。

自分は他人と比べて恵まれないことで、他人が羨ましくなってきます。

○なぜ、顔や容姿がきれいに生まれなかったのか。

○なぜ、丈夫なカラダに生まれなかったのか。

○なぜ、金持ちの家に生まれなかったのか。

などというように神を恨んでしまうことがあるかもしれません。

 

「苦しみ」はなぜ起こるのか

では、苦しみの感情はなぜ、起こるのでしょうか。

それは、こだわり、執着の思いが「心」の中に充満しているのです。

「心」が満たされたいという思いが、自分の精神や肉体を苦しめているのです。

この考えは心理学的なところでは、もしかしたら、潜在意識なるものを出して答えようとするかもしれません。しかしながら、もっと根本的な原因があります。本当はこの苦しみについては、宗教や哲学でないと解けない問題なのです。

それは、現代人が「この世」に執着をしているというのが答えです。

ほとんどの人は、頭脳やカラダ(肉体)が自分自身だと認識しています。そこに落とし穴があるのです。さらに、唯物主義や物質主義が蔓延しているので、死後の世界やあの世を蚊帳の外においています。

そのせいで、「苦しみ」は無くならないどころか、増えていく一方なのです。

本来、人間は霊、魂そして「心」

ブログ内の様々な記事で、多く語っている様に頭脳やカラダ(肉体)は、この世に生きる条件として持って生まれたのであって本来、人間は霊、魂、「心」が本質なのです。

今、思考している「心」があなた自身であって、頭脳やカラダ(肉体)はあと何十年かの消費期限しかありません。

そのあとも永遠に生きているのが「心」のあなた自身です。人間は死後には「心」のままで「霊」という姿をしてあの世へ旅立ちます。

頭脳やカラダ(肉体)は焼かれて灰になり、いずれは土に帰るだけです。

「心」というのは、頭脳にはなくて心臓あたりにあります。「心」は通常、感じることはできても目で見ることも、医者が手に取り出すこともできません。この目で見ることができないというのが、どういうことなのか。

それは、「心」は、この世とは違う次元にあるということです。

だから、頭脳やカラダ(肉体)が無くなっても「心」は生き続けています。それが、あなた自身なのです。「この世」で生きているときに思考している中心はこの「心」であって頭脳ではありません。頭脳はコンピューターのCPUやHDの役目であって、「心」がそれを操作している張本人なのです。

頭脳は、「心」が指令をだして信号が送られて反応して熱をだしています。まさにコンピューターの筐体きょうたいは頭蓋骨であり、その中は熱をもっているのと同じです。

死後に霊となった人間とたびたび話をする機会がありますが、その霊はちゃんと思考しているのです。これを唯物主義の脳科学者はどのように説明するのでしょうか。

いずれは、真実は明らかになるというのに、多分幻想、幻覚として自分達の論理に都合の悪いことを覆い隠しているのではないでしょうか。

 

「この世」の意味

「苦しみ」を生み出すこだわり、執着の原因は、頭脳やカラダ(肉体)が自分自身であると間違った認識をしていることにあります。というのは、「この世」の3次元世界では人間として頭脳やカラダ(肉体)という着ぐるみを着ているのと同じなのです。

それは、「この世」を創造した神の理念において、意味のあるものなのです。この理念を簡単に言わせて頂けるならば、この世は「心」を鍛え、魂を成長させるための学校のようなものなのです。

本来、わたしたち魂(心)は、遥か昔から「この世」での生まれ変わりを経験しながら成長しています。魂の故郷は「あの世」の方であり、優れた魂や遅れをとった魂や様々な個性をもった魂が次元の違う世界に住んでいます。

その違う魂たちが、「この世」に生まれることで切磋琢磨せっさたくましながら、あの世とは違った意味の調和や発展した理想の世界を創ることが目的とされています。

そのための条件として、人間として頭脳やカラダ(肉体)という重い着ぐるみを着ているのです。「あの世」では、それぞれの魂の気のあった仲間がいる世界ではあるのですが、「この世」は特殊な世界として創られているので、どのような人間とでもコミュニケーションを取れるようにこの着ぐるみを着ることになっているのです。自分自身や他人がどういう性質をもった人間かをすぐには理解できないようにしているのです。

そのような神の理念を知ることもなく、現代人の多くが、その着ぐるみの方が自分自身と勘違いしているのです。

 

この世に生きている以上「苦しみ」から逃れられない

この着ぐるみ(頭脳や肉体)を自分自身と錯覚しているところに「苦しみ」が生まれてくるのです。この着ぐるみの自分自身が満たされていないことに苦悩するわけです。

ですから着ぐるみを着ている以上「この世」において苦しみから逃れられることはありません。では、なぜ逃れることができないのか。それは、「この世」を創った神の理念のところで言いましたように、この「苦しみ」というのは、「心」を鍛え、魂を成長させるために必要なものだからです。この苦しみを乗り越えることによって魂が磨かれていくのです。

お釈迦様が言い残したように生老病死というのは、人間として逃れられない苦しみはあります。しかし、特に現代は「生老死」以外の苦しみは、物質社会におけるこだわり、執着が原因なので益々いろんな苦しみを大量生産しているのです。

それに輪をかけて、唯物主義の台頭により、神を否定し人間は物質の固まりのように言う考えが世の中を汚染し、人間は、着ぐるみ(頭脳や肉体)の方に意識が向いて「心」をないがしろにしてしまうのです。

「苦しみ」から脱却する究極の方法

着ぐるみが自分自身であると思っている以上、「苦しみ」の境地から楽になることはありません。それは、四方八方ふさがれてその「苦しみ」から逃げられない状態を自らが創っているからです。

それは、人間の本質を理解すれば脱却することができるのです。ただ、その着ぐるみを脱げばいいのです。脱ぐことで人間の本質である「心」が観えてきます。

この「心」が自分自身であることを理解できるようになれば、「苦しみ」があっても「心」を自由にコントロールできて、平安な境地へもっていくことができるようになるのです。

真実の「心」に目覚めれば苦が楽になる

筆者は、25年前に霊的覚醒をして、過去の清算をしたのですがその後も紆余曲折、波瀾万丈あり、たぶん霊的覚醒していなければ、自殺してもおかしくないような苦悩の日々、どん底の人生を乗り越えてきましたし、まだ進行形です。

実はこれを書いている今もリアルに様々な苦悩と言われるものをかかえていますが、霊的覚醒以来、苦しみ自体をネガティブからポジティブなものとして捉えるようになっています。迷惑をおかけしている妻には「信じられないくらい、いつも能天気だね」と言われています。

「心」は自分自身であることを悟っているために「心」の静寂な世界に意識をおくことができているので、幸福感がとても強いのです。また、何をするために生まれてきたのか、そしてどのようにして、どうなっていくのかが観えているので、苦しみながらも死ぬまでにやるべき計画をただ坦々と進めることができています。

 

「心」は自由、苦しみの捉え方ひとつで違う

人間である以上、「苦しみ」からは逃れることはできませんがこの「苦しみ」を自分自身がどのように捉えるかによって、苦しみ方が違ってきます。例えば、経済的に悩みがあったら、この世的に解決できることもあります。まっさきに仕事ができるならすべきですが、知識や情報を得て勉強することによって、苦悩しなくても解決できることもあります。

筆者は、霊的覚醒をして「心」の穏やかな世界や守護霊と交流をしていますが「心」を霊的世界においているのは、一日中ではありません。もちろん、このブログを書いている時は、インスピレーションを頂いていますが普段は、この世的な仕事で忙しいのです。本当は霊的世界に頼り過ぎるのもよくありません。守護霊は応援はしてくれても苦しみを無くしてくれることはありません。乗り越えるのは自分自身ですから。

そういう意味で、この世的なところも大事であり、何事も中道がベストなのです。

「苦しみ」からは解放されていませんが、ネガティブな「苦しみ」をポジティブな「苦しみ」に変えることができているのです。これも勉強、あれも勉強と言いながら、将来のために必要な苦悩なら甘んじて受けようと達観する気持ちでいます。苦しみはいつか必ず解決するという信念も強いです。

それと大事なのは「心」は自由であるということを覚えておいてください。苦しみに縛られている「心」は自分自身が創っているのであって本来「心」は自由なのですから。

まとめ

「苦しみ」から脱却する究極の方法は、「心」にあります。この「心」の素晴しさを実感してもらいたくて、筆者はこのブログを書いています。

「幸せになる心の錬金術」とは霊的覚醒を促す王道のことです。

仏教でいうところの「悟りの道」なのです。「心」が目覚めることで、本当の自分自身が観えてきて幸福感が深まってきます。この世に生きている以上、苦しみからは逃れられませんが、この苦しみをネガティブではなく自分自身にとってポジティブに捉えられるようになることが最高に幸せなことなのです。

もしも、あなたがこの世の「苦しみ」をいくつも乗り越えることができて、この人生を終えて死後の世界に帰った時には、あなた自身の魂(心)は優れた段階に到達しているのがわかるでしょう。そのときに、今世の人生の結果で、なにものにも変えがたい最高の幸福を得たことになるのです。