テレパシーとは何か
「テレパシー」というのがありますが、筆者がいつも使っているものです。
このテレパシーを使うと人間では無い者との会話が成り立ちます。そこにはいわゆる言語という媒介はいらないのです。ただし、確認をする意味ではこちらから一方的に心の中で言葉(日本語、英語)を使って伝えますが、相手からはイメージで伝わってきます。でも本当はお互い言葉はいらないのかもしれません。
この間、漫才師が海外に行って漫才をしているのをテレビで観たのですが、その国の言葉でしどろもどろに漫才しているよりも日本語でいつもの掛け合いでやっている方が、言葉はわからなくても面白いのが伝わると観客は言っていました。音楽なんかもそうですよね。
本来は言葉といものは必要とせずともコミュニケーションが取れるのです。実際に天国では言葉は必要なくテレパシーが基本だと言います。
読者の皆さまは、例えば、知らない人が家に訪ねて来た時に話をしなくても直感で好意的か悪意があるかの違いは、分かるのではないでしょうか。逆にその相手と話をした方が言葉によってうまく騙されてしまうこともあります。最初の直感の方が正しい時が多いと思います。
過去に筆者は、直感でこの人は「ペテン師」だと思ったのですが、言葉巧みにやられて案の定騙されたこともあります。あとで後悔しました。
人間の場合は心を誤魔化すことが容易にできるので騙されやすいところはあります。それは肉体がある分、心を誤魔化し易く、お互いの心が分かりづらいのです。
さらに騙す方は、悟られまいと相手に対して言葉巧みに口数を増やして相手を洗脳させれば勝ちだと思っているのです。その口車に載せられると騙されてしまうのです。
しかし、霊には肉体はありませんので心が丸裸になっています。だから誤魔化しができにくく、何を考えているのかが相手に筒抜けになるのです。だからそばに来るだけで相手が何を考えている者かが分かるのです。
本当は、霊的世界(死後の世界)ではテレパシーが当たり前で言葉は交わさなくてもお互いが理解できるようになっているのです。
テレパシーが使えるようになるには
テレパシーが使えるようになるにはどのように訓練なり修行をすれば良いかですが、これは霊的能力と同じで、霊的世界に意識を飛ばすことができるかと言うことになります。
この力は潜在的に持っている人もいるかもしれませんが、後天的にも可能だと思います。
なぜなら、筆者が後天的にできているからです。
最近、動物とテレパシーを使ってコンタクトする外国の女性をよくテレビで見ますが、実際あれも本当に動物とコンタクトを取っているのです。
霊的世界に意識を飛ばせると言うのは、心の力の発揮、心のコントロールができるようになる必要があります。
この心の力、コントロールができるには「心」が純粋無垢で磨きがかかっていることが条件です。これはドライバーズライセンスをもっているのと同じで、これがなければアクセルやブレーキ、シフトさえもうまく使えることにはなりません。
すぐに事故を起こしてしまいます。免許をもっていなければ事故って病院や警察行きになります。
穢れた心で霊的世界に参入しようとするのは無免許で運転しようとしているのと似ています。その場合は地獄の方には行きやすいのです。
地獄ではなく天国の方とコンタクトを取りたい場合は、やはり心が純粋で清らかで、この世的な執着を捨て去るくらいでなければ難しいのです。
言葉とは何か
言葉は器や入れ物の様なものです。伝達するための媒介役で、他人同士お互いがコミュニケーションを取るために言語を使ってそこに思いを乗せて相手に何かを伝えるのが言葉です。だから、言葉は器に何を乗せて運ぶかが大事なのです。
言葉は、話し始める前に心にある動機の部分が肝心です。心が澄んでいる人からは相手の言葉に隠された本心が見えてくるからです。言葉そのものよりも本心で何が言いたいのかが伝わってくるのです。それは感情を出さなくても相手の言葉の裏が見えてきます。
この意味を電子書籍『天国の扉』の「感情的部分が『心』だと誤解していないか?」のところでお伝えした水面下の氷の部分の話しを用いてみます。
水面下の氷を潜在意識だとした時に、この潜在意識を常時使うことができる様になれば、他人の本心までが見えてくるのです。これは鏡と同じ性質で自らの心を掘り下げ開発した部分と同じ範囲まで他人の心の中に参入できるのです。
自らの心の奥深くの潜在意識まで開発した人は、他人の心の状態がよく理解できるようになります。
反対に常に表面意識で生きている人からは、全ての人の表面意識までしか見ることはできないのです。ただ、『天国の扉』にも書いている様に人はクリエイティブなことなど直感的なところで時々、潜在意識を利用してはいます。しかし、たいていは心については自覚をしていないのです。どちらかというと頭脳に意識がいっています。
それは「心」というものをあまり意識をしたことがないから仕方がありません。どうしても目に見える物や世間の価値観に流されて、頭が良いとか記憶力が良いとかそちらの方に意識がいっているのではないかと思います。
しかし、これが人間本来の潜在的な力を邪魔しているのです。
だから、心とは感情的部分でしかないと信じているから、自らの可能性を否定しているのです。本当は潜在意識に信じられないほどの可能性があるにも関わらず、存在することも使う方法も知らず、人生を過ごしているわけです。勿体無いというか、宝箱を持ってこの世に生まれた来たのに、宝箱に気がつかず、一度も開けずに一生を終えている人があまりにも多いのです。そのせいで、言葉に宿る力が相手の心の奥まで届かないのです。
自分も他人から心の中を覗かれたくないから閉じてしまい、お互いが表面的なお付き合いで終わっているのかもしれません。
ここが言葉の力が人に対する影響力の違いに現れてくるのです。
その人間の生き様が言葉という器に乗っかって相手に伝わることになります。
言葉を使って人を感動することができる人は、やはりある程度心を掘り下げてきているのです。
言葉に乗せているものが大事
「愛」には自分のための愛、要するに見返りを求めている愛というのがあります。
例えば、ここで優しい言葉をかけておけば、相手から何かを期待できるという思いが強い場合は、これは「愛」とは言いません。どちらかというと取引、ビジネスです。
自分のことはさて置き、他人を本当に気遣う純粋で優しい言葉が本当の愛です。
この違いを元から辿ると「心」の清らかさに問題があるのです。
自分の場合はどちらの意識が強いかということも客観的に考えてみる必要があります。
いつの間にか知らないうちに言葉に心の中の思いが乗っていて相手に届いているからです。
奇跡を引き寄せる言葉の力
「愛」というのが天国とコンタクトを取るにはキーワードになります。
なぜなら、その「愛」に引き寄せ合う法則があるからです。
ですから純粋に他人へ対しての優しさ、愛は天国の神に近い存在に届くのです。
しかし、反対に心の中に自己愛が強ければ、引き寄せ合うところが違ってくるのです。
天国ではないところに引き寄せられるのです。
この世に生きている全ての人の心は、すでに目に見えないところにあります。
誰も心を目で確認することができないからです。
目に見えないということは、この世とは別次元にあることになります。
しかし、それは人によってどこの次元にあるかは、判断がつかないのです。
普通は、そのようなことは考えないと思います。
自らの思いや考えは頭脳がやっているからと思っているからです。
しかし、その心の重要性を認識できれば、心をコントロールすることで目に見えない世界のどこへでも自由にドライブができるようになるのです。
そこで「愛」というキーワードが問題になリます。この優しさ思いやりをどこに向けていくのかによって、見えない世界からのサポート(引き寄せられたところ)が違ってくるのです。
私自身が、「天国の扉」という書籍を書いたことで引き寄せたところが本当にわかったのです。私自身の心の思いが言葉として表現された時に思いもしないことが起こったのです。
ですから言葉の力というのは計り知れないというのが実感です。
この言葉の力は、共通言語を解さなくても相手に通じるというのが理解できました。
もちろん、細かくは何をどのように伝えなければならないかは共通言語が必要になるかもしれません。しかし、真実の「愛」の思いは、人間だけではなく全ての生きている者たちに通じるのです。
多くの方は宇宙人の存在さえ、信じていないかもしれません。ましてや妖怪、精霊、ユーマ、怪物などいるわけがない。人間の想像の産物だと思っているかもしれません。
しかし、SF映画、SF小説の世界やもののけ姫の世界はルーカスやスピルバーグや宮崎駿が勝手に想像して製作した訳ではありません。
実は全く反対なのです。
本来、見えない世界、霊界にはそのような世界がすでに展開されていて、それをルーカスやスピリバーグや宮崎駿などがインスピレーションとして引き寄せているのです。
あれは、彼らがその真実を伝えるための宣伝を芸術的映像という手法を使ってやっているのです。ですから、私自身が毎日のように宇宙人、妖怪、他の者たちとコンタクトができているのも同じ意味なのです。
表現形態が違っているだけで、私の場合はダイレクトに言葉に置き換えて伝えているのです。
今後は言葉だけではなく、実際に証明として何かの奇跡をお見せできるかもしれません。
それはもうすでに、見えない世界で協力体制が出来上がっており、お願いされているからどこかで機会があれば皆様に真実を明らかにできる時がくるでしょう。
このように、言葉の力といのは思いもしない奇跡を引き寄せる力があることは真実です。
それらを受け入れられるだけの心の純粋さ清らかさを目指すことができれば、誰でも可能だと思っています。