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【第二の人生】不平等と不公平「神」に責任があるのか

人がこの世に生まれて、さまざまな環境や状況など

他人とは違ったネガティブな境遇におかれている場合

不平等や不公平を感じたことがあるかもしれません。

 

経済的に発展している国や貧しい国、裕福な家庭

や貧困家庭、肌の色や時代の違い、

容姿の問題や障害を持って生まれたことにも

不平等や不公平として、「神」を恨みたくなることもあるでしょう。

 

人は偶然に生まれてきたとしたら、こう思っても無理はないかもしれません。

しかし、本当は「神」は存在するし、「神」の慈悲はあるのです。

「神」はいない。すべては偶然という思想

無神論者や唯物論者は、「神」はいないし、人間は偶然に生まれて、

はかなく死んでいく存在であり「死んだら無になる」という思想をもっています。

 

現代では、宗教も哲学も形骸化して真理(神理)が見えづらくなっています。

そのうえ、科学や医療技術の発展によってますます、「神」の存在を

小さくしているように思います。

そこには、唯物主義なるものが基本になり、「心」が脳にあるという脳科学者も

多いようです。

「神」は自然の摂理という慈悲をあたえている

人間は偶然に生まれて死んだら無になるのであれば

この宇宙も地球環境も自然もすべてが偶然の産物ということにもなります。

 

しかし、太陽は程よい熱や光を地球にふりそそぎ、

海水の温度が上がって水蒸気となり、雲となって雨が降る。

雨は山へ水を与え、濾過された地下水が飲み水となり、

場所によっては温泉となり人々に憩いの場を提供する。

山からの栄養分が川に流れ、海ではプランクトンが魚の餌となる。

 

樹木は、二酸化炭素を吸って光合成により酸素を供給する。

植物は、人間の栄養となり、花や果実は人間の「心」を豊かにする。

動物、特に家畜や魚は人間のタンパク質に貢献し、

鳥や虫は、種を運び植物の生き残りに協力している。

 

食物連鎖など、考えたらキリがない程、人間は自然から恵みを与えられています。

これが偶然の産物であるのなら、どこが偶然であるのかを証明してほしいくらいです。

 

「神」には、人間では計ることのできない大きな意志と配慮をもっていると

考えたほうが、人として自然な感覚ではないかと思うのです。

 

この「神」のご意志で配慮されているものを「摂理」と呼びます。

この摂理が人や自然、地球を生かして成長させていくための

慈悲でもあると考えています。

 

「神」の摂理は普遍である

「神」が創造された自然の摂理は普遍であり、

人間や生き物にとって分け隔てなく与えられている慈悲でもあります。

 

自然の摂理を考えると、途中は様々な形に変化、トランスフォーメーションを

して成長しつつ循環しています。

摂理の中には、原因結果や因果応報という法則があります。

良い種を植えれば、良い作物ができる、

良い行いをすれば、良い報いがあり、悪い行いをすれば責任をとらなければなりません。

 

人間も自然の摂理どおりに循環している

人間も自然の摂理同様に、「この世」に生まれて成長し

死を迎えて「あの世」にもどり、再び「この世」にくりかえし生まれています。

 

「生まれ変わり」や「転生輪廻」があります。

 

人(魂)は、この世に何百何千と「生まれ変わり」をして

様々な国、時代、環境、状況、人間関係などを

経験して智慧をつけて成長していく存在が本当なのです。

 

この世は、重いカラダ(肉体)を着て生活しますが、

あの世では霊(魂)心として生きているのです。

 

実は、「あの世」の方が本来の世界であり、

「この世」は成長するための場という概念の違いがあるのです。

 

「生まれ変わり」と因果応報

「神」は、人(魂)を最初は平等に創ったという理念を

信じることが、あなたを幸福にします。

そして、人(魂)は、何百何千と「生まれ変わり」

という循環の中で様々な条件の違う経験をしてきているようです。

 

そして、与えられた国、時代、環境、状況、人間関係で

どのように生きてきて、どのような選択や決断をしてきたか

によって、成長のプロセスと結果が異なります。

 

「神」は人間に自由を与えています。

 

良い行いをすれば、良い報いを受けるのです。

しかし、人間には「欲」というものもあります。

その「欲」の使い方を間違えると、「因果応報」によって

それなりに責任を取らなければならないのです。

 

カルマ(業)やトラウマをつくる

ここに、同じ大学を目指す二人の受験生がいたとして、

ひとりの受験生は、学校や自宅以外の通学時の

わずかな時間も惜しんで一生懸命勉強して合格ができた。

 

しかし一方の受験生は、通学時に電車の中に

好意を抱いている女の子に夢中になってしまい

帰宅してからも勉強が身に付かずに不合格だった。

 

この中で、一方の受験生は肝心の受験ではなく

恋心を抱いてしまいました。

この受験生は、このような傾向性をもっていることになります。

 

恋心自体は悪くはないのですが、

このタイミングではありえないことをしてしまうのです。

 

この傾向性のことをカルマ(業)と呼びます。

 

このようなカルマ(業)は、何度も「生まれ変わり」の中で

様々な状況、環境、人間関係などで起こりうることなのです。

 

もう一方の合格した受験生にとっても

別のところにカルマ(業)をもっています。

例えば、学業は優秀で良い会社に入って経済的にも安定したので

そろそろ家庭をもつべきだと親から言われていた。

 しかし、恋愛をしたことがないので、女性と会話するのも恥ずかしくて

できない、2人っきりになったら怖いから中々結婚まで踏みきれない。

というような傾向性をもっているかもしれません。

 

何度かチャレンジしたけど、フラレてばかりだとトラウマにもなってきます。

 

それぞれの人(魂)が、生まれ変わりの1回の人生の中で、

このようなカルマやトラウマなどの魂としての傾向性をつくってしまいます。

 

「生まれ変わり」は神の慈悲

魂の傾向性は、何度も生まれ変わりを経験していく過程

でポジティブにもネガティブにも発揮されていきます。

そしてポジティブやネガティブなことの

行いで、報いを受けながら成長していきます。

 

例えば、今回の人生でネガティブなことに、殺人を犯してしまったら

この世では法律上、刑に服さなければなりません。

この世で捕まらなかったとして地獄の世界で反省しなければ

ならないようになっているのです。

 

それに、殺人を犯した相手があるので

相手の念いに苦しめられるような報いも受けるでしょう。

 

地獄の反省が終って天国に帰り、もう一度この世に生まれ変わった時に

今度は、殺される側の立場を経験させられることもあるようです。

次に再び生まれ変わった時に、同じ様な機会に遭遇して、

こんどは、相手を思いやることができたら、やっとカルマを刈り取ったことに

なるのです。

 

このように、因果応報の法則がありますが

「神」は、長い目で人の魂の成長を観て、

カルマ(ネガティブな傾向性)を乗り越えるまで

許して待っていただける慈悲をもった方なのです。

 

不平等と不公平なのか

「神」は1回の人生ではなくて、「生まれ変わり」の仕組みを創り

カルマやトラウマを乗り越えていき、

強くたくましい魂へ成長してほしいという願いをもっているのです。

 

「生まれ変わり」という神の慈悲は、どのような人にも分け隔てなく

さまざまな知識や経験を試すことができるチャンスを与えています。

 

人(魂)の人生が1回きりであれば、確かに不平等や不公平かもしれません。

しかし、人(魂)は永遠に生きている中で「生まれ変わり」によるトライの機会

を与えられているのです。

 

不平等と不公平といって不満をもつべからず

死後に、どんな人にも平等、公平に訪れるのは、生き方の判定です。

 

裕福な家庭に生まれた時に、何を思い、考えて行動したか。

また、貧困家庭やハンディキャップを背負って生まれた時に

何を思い、考えて乗り越えてきたのか。

 

このような正反対の境遇におかれることもあるのです。

たとえば、裕福な家庭に生まれた人は

その環境に甘えることなく、立志して世の中のために

尽くせたか、またハンディキャップの境遇を乗り越えて

人のためにお役に立てたかが、さらに人(魂)としての

高度な成長につながっていくのです。

 

このように人(魂)の成長が試されている

事実があるとして、不平等や不公平と不満をもって

生きているならば、希有な機会を無駄に過ごしてもったいないと思うのです。

→→→        【心の錬金術】障害者であっても「心」は健常者

まとめ

人間は自然の摂理の中で生かされている存在なのです。

人間は「自由」を与えられています。

しかし、それには責任が伴い、「因果応報」という法則からは

逃れられません。

 

人は、物質世界であるこの世にいると、

どうしても狭い考え方に陥り

この世の感覚で、他人と比較してしまいます。

だから、不平等や不公平という考えになってしまうのです。

 

でも、「神」は、たった1回のみの人生ではなくて、「生まれ変わり」

という果てしない時間やチャンスを人間に与えてくれています。

それは、人の魂が切磋琢磨をして智慧をつけてたくましく成長して

ほしいという慈悲の表れであるのです。

 

「神」のスケールの大きい慈悲を知って純粋な信仰をもつことで

あなたの人生は幸せで豊かなものになるでしょう。

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