最高の親孝行ができる。この親孝行は最高の「愛」でもある。それはお金をかけることではなく、あなたの「信じる力」「説得する力」次第でもある。
親孝行したくても自分のことで忙しくて中々できないと思っている人も多いでしょう。 いつかは、親孝行をして親に楽をさせてあげたいと思う気持ちはありますが、経済的な余裕が生まれてからと時間ばかりが過ぎて、とうとう親は高齢で病気になって施設に入ってしまうということもあります。
そして、「この世」を去ってしまい後悔するのではないかと思います。 「孝行のしたい時分に親はなし」ということわざ通りです。
これは、筆者のつい最近の出来事です。親の葬儀が終わったばかりで、葬儀の意味も考えながら、「親孝行」について書いてみます。
父の最期を見届ける
父が危篤という知らせを受けて3日後に病院へ行きました。新幹線に乗って病院には夕方に着いたのですが、すでに意識はなく呼吸のみでした。 実際には2週間ほど前に、最期の別れで握手と言葉を交わしていたので後悔はありませんでした。
その真夜中に病室で筆者と妹の付き添いで息を引き取りましたが、86歳と長生きできたので、最期は本当にお疲れさまという気持ちでした。
お通夜までのこと
前回帰郷したときに、あらかじめ葬儀の準備、シュミレーションをしていたので手順通りに葬儀屋に連絡をして進めていきました。お通夜までは、遺体と共に過ごす必要があり実家に安置するか、葬儀場に安置するかは選べるのですが、線香を絶やしてはいけないという風習があるので、それに従って筆者は進んで父の遺体と共に2日間葬儀場に泊まることにしました。
普通は1日間だけで良かったのですが、なぜか2日間にしてしまったのです。あとでご説明しますが、この機会が筆者にとって最も良い時間となったのです。
葬儀までのこと
葬儀(お通夜、葬式、告別式)は地方、地域によって様々な風習がありやり方が異なっています。筆者はボランティアで町会長をやっていて、よくお通夜、葬式は出席していますので、筆者の地元の風習や葬儀の流れは熟知していましたが、実家の地域の葬儀方式には驚かされたところがありました。
まず、お通夜までに身内の人の儀式として、湯灌や納棺がありました。
湯灌は、「おくりびと」という映画で本木雅弘が演じていたとおり、安置している遺体の身体や髪を洗い清め、化粧を施して、身支度を整える儀式のことです。納棺は、残された身内、子、孫で遺体を棺に納める儀式のことです。
そこまでがお通夜の前にする儀式でした。
筆者は今回、高齢の母に代わって喪主を努めることになりましたので、葬儀準備や喪主という役割でダブルの忙しさを経験しました。
お通夜やお葬式、告別式のいずれも喪主が挨拶を言わなければならず、父との思い出を紙に書き留める時間をもてたのは、かえって良かったと思っています。
そして、お通夜とお葬式という儀式を滞りなく無事に終えてホッとしているところです。 お通夜やお葬式に数百人の人が参列されたことには、生前の父の人柄の良さ、人徳を感じた次第です。
葬儀の意味を考える
最近では、核家族が多くなり独居老人の問題も多くなってきました。お坊さんが言うには、独居で家族がいない高齢者が亡くなると警察の世話になる人も増えてきたそうです。
葬儀の仕方も家族葬などで終わらせるところも多くなり、良いのか悪いのか墓までもコンパクト化されてきました。
今回、筆者は始めていちばん近い身内の弔いをフルに経験したことから霊的観点を含めて意見や感想をお伝えします。
まず、「葬儀」ですが絶対必要です。
葬儀の種類は宗教によってさまざまではあると思います。キリスト教(各宗派)、仏教(各宗派)、日本神道そして数々の新興宗教によって違いはありますが、葬儀は行うべきだと思います。
生前、亡くなった方が信仰していた宗教があればそれも良いのではないかと思っています。
なぜならば、筆者がブログを通して何度もお伝えしているように、「死ぬ」という自覚をもつことが死者には難しいからなのです。
「死」とは肉体が朽ちて、肉体がつかえものにならない状態を言います。
霊的真理においては、シルバーコードという肉体と魂が繋がっているものが切れると「死」と言いますが、本人はほとんど自覚がありません。
肉体をセミの抜けがらのようにして魂が離れるのですが、この時の自分の自覚は「まだ生きている」と錯覚しているのです。
錯覚それは、幽体離脱したことのある筆者は経験しているので解るのですが、この世に生きている時と同じように頭や体、手足がある状態に見えるからです。
だから本人は「死んでいない」と思ってしまうのです。
このような錯覚を起こさない為に本来「葬儀」という儀式は大変役にたっているのです。「この世」に残された方がお別れの意味で葬儀をするという意味でもありますが、亡くなった方が自分の「死」を自覚することが最も重要になるのです。
遺影や写真を見て、身内や知人が泣いている姿を観たりすることで本人は死んだかもしれないということを自覚します。その時に、日本であれば三途の川を渡って成仏するという話は聞いていると思いますが、まさにそのイメージを使って生前の宗教(仏教)であれば、お坊さんや先に亡くなった身内が迎えにくるのです。
そのような流れに乗って天国の入口まで導かれて行くのです。
この意味で「葬儀」という役割は、大変重要になります。
最近のように葬儀も簡素化されて、葬儀を合理的にやる形式だけに陥ってしまえば、「この世」の人はいいかもしれませんが、亡くなった本人は死を自覚する機会をもつことなく、この地上に彷徨ってしまうのです。
結局、そうなれば残された家族とともに幽霊として「この世」に居ることになるわけですから 残された家族にとっては知らず知らずに病気になったり事故にあったり不幸が起こってしまっているのです。
これが昨今の現状であり、筆者は幽霊とよく話をしているのでよく解るのです。何度もブログでお伝えしているように、現代の日本は無神論が横行し唯物主義化しているので大変危険なところまで来ています。これは筆者の守護霊団も同じ意見であり、だから筆者は啓発を急いでいるのです。
父へ引導を渡すことができた
お通夜までの2日間、父の遺体と共に6帖くらいの部屋にひとりで過ごしました。遺体と夜を過ごすのは怖いので中々勇気がいるとは思いますが、筆者はいつも霊と話をしているのであまり怖くはありません。
1日目の夜に、筆者は父に今の状況、状態をお伝えしました。死んでいることの概要をお伝えし、もう肉体は使いものにならない、今は病気の状態から脱して、起き上がって座ることや歩くこともできることをお伝えしました。
特に父は、亡くなる2年前に頭を強く打って、記憶喪失になり寂しいことに筆者のことさえ息子だと理解していなかったのですが、肉体や頭脳が無くなれば、それらに縛られなくなり魂として正常に戻ることを伝えたのです。
肉体は寿命という消費期限があるけれど、今は正常な魂に戻っていることも伝えました。 初日は、死の概略くらいにしましたが、何か解りませんが色々な邪霊などが来ていて邪魔が入っている感じもありました。(実際、父が亡くなる1週間前ほど前から邪霊、悪霊が騒いでいて、実家から600kmほど離れている筆者の自宅によく邪霊や悪霊が飛んできていました。不思議なことに父が成仏してから気配が無くなったのです)
2日目に今度は筆者が父に育ててくれたことを感謝して、涙した時間を過ごしました。それから、人間とは本来霊であること、あの世が本当の世界であることをお伝えすることができました。
生前の父は、いわゆる唯物主義者でもありました。戦争を経験して日本の高度成長時代を築いてきた年代であり、朝日新聞などの思想に随分感化されていたからです。唯物主義者を説得するには時間がかかるのです。
しかし、筆者は生前の早い内から、そのような霊的な話を実家に帰っては時々していましたが、そのような話はあまり受け付けていなかったのですが、少しは免疫的な効果はあったと思います。
それと父の性格的なところは、時々「そうか」といって素直なところがあったので筆者もその性格を信じて話を続けたのです。
それから、最後に父のお父さんやお母さんが迎えにくるから、いっしょに行くように伝えたところ、父は悟ったように感じました。
その後、部屋中が暖かくなり父の気配を感じなくなりました。邪魔をする霊も居なくなったように思いました。
一日目は確かに、遺体に父の魂と筆者が共にいたので父の優しい「気」というものを感じていましたが、父の気配がなくなったので、どうしたのかと思っていたら、白い着物をきて帯をしめた父の後ろ姿が観えたのです。
守護霊に聞いたところ、お迎えがあってすでに三途の川を渡ったとのことで成仏したことを知って、嬉しくなりました。
今回の場合は異例なのですが、お通夜、葬式にはすでに父は父本人の遺体(棺)のそばには、いませんでした。普通は、亡くなった方は生前の病気の状況と同じで遺体に納まったままや棺に座っていたり、パニックになって歩き回ったりしますが、父はすでにそこにはいませんでした。
少し上の方で客観的に、本人のお通夜や葬儀を観ていたのだと感じました。お坊さんには申し訳ないのですが、お坊さんより先に筆者の方で引導を渡したということになります。
最高の親孝行とは
親が亡くなってから、親孝行ができなかったことを悔やむ人が多いと思います。
生前に記念日などに旅行をプレゼントしたり、いっしょに連れて行ったり、金品を渡したり、または孫を見せに行ったり親といっしょに楽しむ時間をもつことが親孝行だと思っているところもあります。他には親から独立してりっぱにやっていること、安心させることが大切であり、最低でも親に迷惑をかけないようにすることも親孝行だと言われています。
筆者はそう考えると、仕事がうまく言っている時に、旅行に連れていったり物を送ったりしたこともありました。しかし、実は安心させるより心配かける方が最も多く、筆者の波瀾万丈の生き方は納得していないかもしれません。本当には親不孝だったかもしれません。
特に母には心配かけまくりで信用されていないところがあるので、母の最期を看取る時は、父より大変になるかもしれません。
親孝行は親を思う「心」、感謝する「心」があって、その時点で無理をせずにできるだけのことをするのがいいと思います。
形だけあっても「心」が伴わなければ何の意味もないからです。
しかし、人として最高の親孝行があることを知っていますか?
今回、筆者が実践できたことがそうだったのです。
最高の親孝行というよりも最高の「愛」という言い方でもいいのです。 それは、「人間は物質の固まりではなく人間は本来霊である」ことをお伝えして天国の道を指し示すことが、最高の親孝行なのです。
現代、死後に迷っている人は、たくさんいます。 その人(霊)は生前に世間に多い無神論か唯物論に染まっていたからです。
もしも、あなたの親が本当に地獄に行くとしたらどう思いますか?
天国があるなら天国に帰って欲しいと思うのではないでしょうか。しかし、現代は半分以上の人が天国に帰っていないのです。「この世」に幽霊として彷徨いそして、ついには地獄の道へ歩き出す人(霊)が増えているのです。
あなたの親がもしそうだったとしたら悲惨ではないですか?
救ってあげたいと思いませんか?
この現実は、今後、幸不幸を経験するあなた自身にも還ってくることであり、とても深刻な問題でもあるのです。
現代の葬儀のお坊さんや牧師さんには、残念ながら引導を渡す(成仏させる)力はありません。それはあの世を本当に信じているお坊さんや牧師さんが少ないからです。
(あの世を信じているかいないかについては、お経を上げている声の波長で解りますし法話の内容でも判断できます)
残念ながらそれよりも、儀式や形式または宗派的なこと、難解な経典を唱えることに重きをおいて、単に商売化しているように感じます。それに葬儀に参列している人で、お坊さんがお経を唱えている内容が本当に解る人はいますでしょうか。生きている人が解らないのに死んだ人も解るはずもありません。お坊さんも本当には理解していません。なぜなら、霊的世界を信じていないからです。
筆者は、お坊さんがお経を上げている後ろに、死者の霊が騒いでいるのを確認したことが何度もあります。お経の意味は解るかと尋ねたら「何を言っているのかわからない」と言っていました。そこで筆者は「あなたは本当に死んでいるのですよ、、、、、、、、、もうこの世には執着してはいけません、、、、、、だから、お迎えが来ますので付いて行ってくださいね」とお経の最中に説得して成仏したこともあります。
お経の意味、内容は、実は筆者がブログで話しているのと同じなのです。
筆者は現代語で解りやすく、お伝えしているのですが、簡単に言うとお経は2500年前に霊的覚醒したお釈迦様が霊的なお話しをした内容が弟子たちによって編纂されたものが、中国に渡りいつしか声を出して唱えることに目的が置き換わったところがあります。(現代の日本では、お経は唱えるものだと誤解しているところがある)
実際には、お釈迦様の霊的体験をいろいろな方便を使いながら霊的世界を明かし、この世に生きている人達に真理に目覚めさせることが書いてあるのです。
人間は物質の固まりではなく本来「霊」であり、魂が真実です。とこのような内容を理解させてあげることが、本来のお経の目的なのです。
最低限、「葬儀」という儀式で死を悟る死者は、良いほうなので葬儀は必要ですが、これに信仰心の深いお坊さんや牧師さんがいれば、成仏させる(三途の川を渡って天国の入口までいく)ことができるので、安心して「死者」をお任せできるのですが、現実的には深刻な問題です。
だから、筆者はブログで啓発をしているのです。
多くの読者の皆様が、霊的真理知識を身につけて見えない世界にたいする感謝と信仰心をもったならば、「親の最期」はあなた自身で看取り、成仏できるはずだと信じています。
それが、最高の愛であり、最高の親孝行なのですから。
まとめ
今回、おかげさまで筆者は父の最期を看取り、引導を渡すことができました。
まず、三途の川を渡るところまでは生きている人(身内)なら導いてあげられるはずです。
それには信じる力、説得する力というものがいりますが、このブログに書いている霊的真理知識を身につけていただいて、「心」を浄化させることができれば信じる力は強くなってくるでしょう。そうなってくれば、「この世」の常識と実は多くが反対だったことがよくわかるのです。見えない世界が本当の世界であり、「この世」は仮の世界の意味がわかってくるでしょう。
嘘に覆われたこの世の仮面を気づかして、剥がすお手伝いができる人が本当の「愛」の実践者となるでしょう。イエスキリストという人もその実践者であり、実はそのことを述べていたのです。
「愛」の実践者として救う側になるか、救われる側に立つかは、あなたの「心」次第ということです。
最高の親孝行はあなたにもできると信じています。