もし、人は誰しも「財宝」をすでにもっているとしたら、
そして、その「財宝」が自分や世の中をハッピーにしてくれることがわかったら、
見つけたくはないですか?
実は、その「財宝」が心にあります。その「財宝」を見つける方法(鍵)が
この「心の錬金術」に示してあります。
できれば、今この世に生きているうちに
心の奥に眠っている「財宝」を見つけてみませんか?
「心の錬金術」という方法で夢を叶えましょう。
心の認識が違えば財宝は見つからない
基本的な話になりますが、「心」はどこにあるでしょうか?
この心のある場所の認識が違っている場合は、はっきり言って「財宝」は見つかりません。
最近は、脳科学で心が頭脳にあるようなことを言って
一生懸命、頭脳の中に心のありかを探して科学で証明しようとしています。
特にネットで「心のイメージ画像」を検索すると脳のイラストが多く見られますが
欧米の人がそのような考えをもっているのは多く見受けられます。
心は脳にはない
心は脳にあると言った考えは、唯物論的な考えでもあります。
頭脳というのは、人間の肉体の一部であって、死んで焼いたら灰になってしまいます。
それに脳死や脳が動いていない方に懐かしい歌を聞かせると涙を流すこともあるようです。
実際、自分が入院中に脳が動いていない方を励ました時、涙を流していました。。
このように脳が正常ではないのに涙を流すのはなぜでしょうか?
涙は脳で考えてから泣き始めますか?胸から自然にこみあげてくるのが本当ではないですか?
このように脳というのは、肉体の一部の器官であって「心」ではありません。
心は胸のあたりに存在する
心は胸のあたりにあって、見ることはできませんが感じることはできるはずです。
多分、幼い子供に「心ってどこにある?」と聞いてみるとほとんどが胸あたりを押さえると思います。
しかし、大人になると合理的な世間一般の常識を信じる悪い癖を持っているために、
子供の頃の純粋な気持ちがなくなってくるのでしょう。
心は見えないということは、次元の違うところに存在するということになります。
心は肉体を支配してコントロールをしています。
コンピューターを前にして操作している本人と同じような存在です。
脳はハードディスクで心が操作をしている
コンピューターが肉体とした場合、
そのなかの記憶に関係しているものが脳にあたると考えています。
いわゆるハードディスク(HD)です。
このハードディスク(HD)には、人間がこの世に生まれて学んできた言語、知識や経験など
が蓄積されていて、その容量が大きいか小さいかは本人の努力の部分もあるかもしれません。
そう考えると脳科学者は、一生懸命そのハードディスク(HD)の機能や性能の研究をしている
ように見えてしまいます。
心にあるメモリが重要な役割をしている
もうひとつ、コンピューターに「メモリ」という記憶をつかさどるものがあります。
これは見えない世界の心の部分に存在するものだと考えています。
「潜在意識」というところにあります。
このメモリが頭脳と連携をして記憶を呼び出す働きをしています。
それは人間が死んだ時に脳は灰になりますが、この世で蓄積した智慧の部分が
本人の心のメモリに記憶される重要な役割をしていると考えています。
このように、心の法則を理解し、心の神秘を経験すると
心と脳の役割の違いが理解しやすいのではないでしょうか。
唯物論的考えの人は財宝は手にいれられない
結局は、唯物論的な考えを信じている人には、
「財宝」は一生かかっても手に入れることはできないということです。
やはり心は胸あたりにあって目でみることはできないが感じることはできる
という基本的な考えが絶対に必要になります。
心の探検隊のような意志をもつ
本当は、心の法則に従って素直に実践するだけで
財宝を手に入れることができます。
それには、まずは「意志の力」が必要になります。
意志の力は、宝物を探そうとする探検家のような気持ちです。
「信念」「愛」「知」「反省」がいる
その意志は、絶対に見つけるし、絶対見つかるといった「信念」がいります。
そして、最初の動機に必要なものは「愛」です。
そこからスタートをして道に迷わないようにするには「知」が必要になります。
それからは、一番肝心なものが掘るための道具です。これが「反省」です。
心の錬金術で乗り越えれば財宝は手に入る
この反省で掘りだす作業は、大変かもしれませんが
ここを「心の錬金術」で乗り越えていけば、必ず財宝が見つかります。
奇跡を経験するでしょう。
第二の人生では財宝を来世までもっていける
そして「第二の人生」を歩み、財宝を輝かせて
財宝を増やしていくことができたら、これ以上の幸せはないでしょう。
そして、この世で見つけた「財宝」は来世にも持っていけることになるでしょう。