空海の光と影、いわゆる善と悪を明らかにする。結論から言うと、空海はすでに無間地獄にいる。なぜ、空海のような社会や文化に貢献し、多くの功績を残した人物が地獄に行っているのか、全く理解できない人は多いと思う。

それは、人間と神の視点において、ジャッジに大きな違いがあるからだ。

神の視点は、空海の心の中にある、時空を超えた彼の根本的な思考形態に重点を置いている。そこが徹底的に違うのだ。したがって、彼に対して善より悪が勝っている判断を下している。

空海の功績(人間による視点)

空海は、この世的には数々の功績を残し、観光文化の発展にも寄与している。これは、彼が宗派を超えて数々の事業を行ってきたからでもある。

満濃池の改修など公共工事、四国八十八ヶ所、綜芸種智院という私立学校を設立、また、高野山に金剛峯寺を創建するなど、文筆家、芸術家でもあり、マルチに活躍している。

彼のように、まるでレオナルド・ダヴィンチを思わせる多方面で活躍できる才能の持ち主は、そう多くはいない。

このように大きな功績を残した「空海」は、この世的に多くの人から愛されて、親しまれて、尊敬されるべき人物になっている。ただし、これは同じ人間による視点での評価である。

神の視点からのジャッジ

しかしながら、神の視点から眺めた時、彼自身に光と影が交錯して見える。光と影(善と悪)の観点から、残念ながら、悪の方が勝っている。

結果、現在は別の惑星の深い地獄の刑務所に足枷を嵌められて監禁されている。彼自身に反省を促しているところだ。

おそらく、現時点で本人は何が悪いのか分からないかもしれない。宗教による心の拠り所、神社仏閣など観光業の発展や歴史的な文化にも貢献したと思っているからだ。

一方で、神が「空海の功績」を認めないなんて、誰もがおかしいと思うかもしれない。しかし、善悪の問題はその人物の功績や業績にあるのではなくて、その人物のもつ「心」がどうであるかが判断になっているのだ。確かに、功績の部分で言えば、善だと思われるかもしれない。

しかしながら、人間としての本質的な面でズレがあるために、せっかくマルチに活躍した功績も足元から大きく崩れている。いわゆる、多くの功績が「砂上の楼閣」になっているのだ。

空海の重い罪

彼のやってきたことが、多くの人々の役に立ち、貢献をしているように見えて、実は、彼自身の優越感、自己顕示欲のためにやっていた部分が多く感じられる。そこには、騙しや嘘、ペテンも多かった。それが方便だったと言い訳をするかもしれないが、しかし、結果的に多くの人々を死後に地獄に導いていた。また、神社仏閣の側で神になりすます者たち(アクリョウや悪魔たち)を多く育ててしまった。

そもそも、宗教である密教を巧妙に創作して広げた。それは仏という架空の存在を生み出し、如来、梵天、菩薩など造語による仏教を創作した「釈迦」と同罪の面がある。曼荼羅に表したように難解な世界をあえて創作することによって、そういう世界観に多くの信者や弟子を引き入れて、洗脳することで、空海は崇め奉られる優越感に浸れるからだ。いわゆる信者や弟子を彼独自の世界(地獄)に導いて、永遠に成長させない方法をとった。魂たちの成長を促すのではなくて、祈りによる神仏への依存精神を植え付けた。

そもそも地獄とは、苦しい場所とは限らない。苦しくて辛い場所が地獄であると洗脳するのは、宗教の常套手段だ。脅しによって宗教組織に引き入れるための言葉だからだ。しかしながら、釈迦や空海が創ったありもしない世界は、真実の神の天の王国(天国)とは切り離された独特の領域であり、それを本来は「地獄」と呼ぶ。この世で宗教に傾倒した人たちは、その独特の宗教に洗脳されているために、死後にその世界に引き寄せられる。しかし、本人はそこが地獄であるとは分かっていない。ほぼ永遠にその世界に住むことになり、地上人類(人間)に生まれ変わることはできなくなる。

翻って、真実の神の天の王国(天国)には、曼荼羅のように如来、梵天、菩薩、閻魔大王などは、全く存在しない。そのような世界ではなく、もっと自由で地上にも生まれ変わることができる。天国に行ければ地上に生まれ変わり、そして天国→地上→天国→というように何度も繰り返し転生できるために、魂が成長するルートに乗ることができる。

しかし、空海自身が、ほぼ永遠に崇め奉られる、彼の想像し創った密教の世界に多くの信者や弟子を導くことをしたのだ。したがって、それは重罪である。

空海は策士だった

例えば、彼は「四国八十八ヶ所巡り」というパフォーマンスを生み出した。信者やお遍路さんの懺悔、病の回復、心願成就、供養などを目的として、寺院を巡り、神仏への信仰心を促している。お遍路によって、罪が軽くなるとか、ご利益が得られるとか、あり得ない。それは宗教に誘うためのパフォーマンスにすぎない。

そもそも宗教は悪であり、神仏への祈りを強要するのは悪である。

それだけではなく、関西が中心ではあるが、全国にもある、多くの神社仏閣や観光名所に、弘法大師(空海)の名を観ることができる。彼は、何も無いところに由緒を定めて観光名所をつくった。

一方で、行政は、神社仏閣や観光名所があることで、人が集まり経済的に潤うために空海の足跡をありがたく思っている。そういう意味で、空海は観光を企画するディレクターやデザイナー的な仕事をしてきたとも言える。

例えば、由緒を定めるために各神社仏閣にたいして、ありもしない奇跡や、彼自身が観たとする、幻想や摩訶不思議な創り話をして各神社仏閣の特徴を与えた。それを由緒とすれば、各神社仏閣にご利益があるために多くの信者、参拝客やお遍路さんが増えるからである。

例えば、空海が、どこかにある寂れた神社仏閣に行けば、そこで何か不思議な霊的体験(如来や観音様が現れたなど)があり、それによって奇跡が起きたと言うならば、それがその神社仏閣の由緒となり、大きな宣伝効果として、多くの人を集めることができ、神社仏閣側が経済的に潤うことになる。

また、その結果、空海自身がその地域や神社仏閣で歴史的に崇め奉られる対象となるのだ。

そのような由緒になる霊的現象が事実であり、理に適ったものかは問わず、思いつきの嘘や騙し、ペテンであっても、有名になった空海が言及するのなら、神社仏閣側は、それが真実として利用するようになる。

そのような形での神社仏閣はたくさんある。空海という名前の箔が欲しかったからだろう。

一方、空海は彼自身に都合よく物事が進むよう戦略を立てる「策士」だったのだ。

空海は宗教を利用して名声を得た

私は、空海が関係している、関西にある日本三大〇〇〇仏閣と、〇〇〇〇宮という神社に行って、それらの神社仏閣を守っている霊的な者たちを呼び出して、話をして確かめたことがある。結果として神社仏閣には、神仏を名乗るニセモノたちが牛耳っている。神社仏閣側には天国の者はひとりもいない。

地獄にいる悪霊、悪魔、動物霊や悪質宇宙人たちである。

神社仏閣に集まる、多くの信者や参拝客が願いを叶えてほしいと心願成就をもっているのを良いことに、崇め奉られる側として優越感が満たされるために、彼らは神仏になりきっているのだ。

これらの神社仏閣の地獄にいる者たちを集めて話をし、地獄から天国へ行く方法を説いている一方で、反発する者には処罰をしているが、これがキッカケとなり、霊的世界において、私の存在が伝播し、次から次へと違う神社仏閣の霊的存在が、私のところへ毎日たくさん集まってきている。

地球のリセットが近いために、4次元世界(地獄)にある日本中の神社仏閣や宗教関連施設をすでに崩壊させた。

地球のリセット後の新たな文明には神社仏閣や宗教関連施設は必要ないからだ。そもそも宗教はいらない。なぜなら、宗教は、野蛮で未熟な惑星人類が好んでいるために、地球リセット後に新たに起こす、「高度な霊性文明」には全く必要ない。

したがって、神社仏閣に関係する大勢の霊たちをどうするかが、現在の課題になっている。

善悪の判断は輝く心にあり

この世において、善悪の判断は、非常に難しいところはある。その判断に迷った時は、「心」がどうであるかを確かめるべきだ。

ただ、心がすでに曇っている者には、正しい判断はできない。

そのために、私は常に心を改善し、磨き続けることが大事であると言及している。心の奥深い中心に存在する神からの光を日々、確認することが光を仰ぎ見る(本当の神への信仰)であるので、輝く心を維持することに努める必要がある。輝く心を維持していれば、善悪の基準がはっきり見えてくる。それによって善悪の判断ができるのだ。

例えば、輝いている心に、私欲が邪魔をすれば、それがよく無いことに気がつくだろう。翻って、すでに曇っている心では、私欲も誤魔化してしまうようになる。したがって、善悪の判断ができないのだ。

輝く心が、自身に限らず、他人の心を照らして、悪を浮き彫りにする効果もある。

善は神にある。神は光であるが故に、光を遮り、邪魔をするものは影となり、それが悪であるのだ。善か悪かを判断できるためには、心をとことん浄化し磨き続ける以外ない。

加えて、宗教による「神への祈り」はまったく意味をなさない。