天才数学者が共同研究によって数学の世界に多大な貢献をした。その実話を映画化した作品だ。これは現代や未来にも通じる普遍的な映画だと思う。「直感」と「証明」という言葉がどのような意味をもっているのか。また、愛や信仰の大切さも伝えている哲学的に深い映画であることに感動した。
『奇跡がくれた数式』のあらすじ
ラマヌジャンというインド青年は数学を独学にも関わらずアインシュタイン並みの天才と呼ばれた能力をもっていた。ハーディという英国人数学者がそのラマヌジャンを英国に招待して、数学の「ある分野」に挑戦し、その証明に到るまでの2人の友情が描かれている。
その二人は全く違う生まれ、環境、境遇や考え方を持っていた。ハーディは、自称「無神論者」であったが、ラマヌジャンは小さい頃から熱心にインドの女神「ナマギーリ」への信仰をもっていた。
初めハーディはラマヌジャンに対して高度な数学の能力に懐疑的であった。なぜならラマヌジャンは証明することよりも芸術的な直感に頼って数式を解いていたからだ。多くの教授陣もまた懐疑的でなおかつ、ラマヌジャンの能力に嫉妬もしていた。それにインド人であることに多くの教授陣は差別の思いをもっていた。しかし、ハーディは徐々にラマヌジャンの本当の心に触れて真実を理解し始める。
これから先は、できたらこの映画を観てからの方がより意味が理解できると思う。今ならAmazonPrime Videoでフリーで観ることができる。下記はYouTubeの宣伝動画。
証明ばかりを重視する現代社会はどうなのか
直感を信じるか、証明をしたものを確認するか、これは数学の世界だけではなく科学や物理の世界でも同じことが言える。直感は目に見えないものでインスピレーションとも呼ばれる。これにこの映画では「愛」が加わっているがこの愛もまた目に見えるものではない。だから信じることが必要なのである。
一方、証明されたものとは、信じるべきものではなく確認するものではないのか。完璧に整合性が取れていて誰が見ても間違いがない状態のものは、信じるも何も確かめればわかる。ただ、その証明することを追い求めている数学者、科学者や物理学者の探求する姿勢は素晴らしいものがある。もちろん、証明するまではその対象物がそれであるといった仮説が必要である。仮説がその通りであるという証明に到るまでは信じる行為があるからこそ探究心やモチベーションが続いている。
この映画では、同じ探求する者同士の考え方の違いが何を意味しているのかも教えてくれる。ラマヌジャンやハーディは、共に数学を通して高度な公式、方程式を探していたが、その中でこの二人の決定的な違いは、ハーディは社会の中のルールに拘り「数学の世界では何においても証明できなければ何の意味もない」と意見を貫いた。
それに対して、芸術的な直感を信じているラマヌジャンは「神の御心がなかったら方程式など何の意味もない」と言ったのだ。その言葉の意味は最後のクライマックスで「方程式は創るものではなく、すでに宇宙(全ての世界)に存在している、、、」とラマヌジャンに感化された無神論者のハーディは逆説的に語ったのだった。
宇宙は「法」法則で満ち溢れている
この言葉の通りだと筆者は思った。過去に筆者が高級霊から言われた言葉が「この世の世界において1から創造するものはもはや無い、そこからどのようにアレンジして社会に役立てていくのかが大事なこと」と言われた。
この言葉の意味は、科学においても物理、医学、工業などにおいても新しい発見をし今までになかったものを生み出したとしても、それは謙虚さを失ってはならないということの意味だ。
もうすでに神は方程式や公式、法則「法」というものを用いて宇宙や自然、人間、生き物を創造されたからだ。人間が何も無いところから一から作り上げるものなど一切ない。ただ、そこからその法を用いて智慧を使い組み合わせてアレンジし社会に役に立つものを編み出している。
ご存知の通り、コンピューターなどデジタル社会の元は数学から生まれている。「1」と「0」の2進法、電気を通す通さない「オン」「オフ」から始まっているのだ。元はと言えば、神の「愛」から生まれた法則を人間が発見しその法則を社会に生かすために物、製品に変えている。これは神からの法という愛のバトンが人間に渡ったからできた証でもある。
直感は霊的なもの、人間はこの能力をもっている
しかしながら、このような謙虚さを失い、自らが生み出したように振る舞い、この世の権威や権力に執着をしている人々が多いのも事実だ。この映画の中でも大半の教授は、この世的な人であってこの世のルールに縛られて権威を抱きしめて生きていることが観て取れる。
この世的なものを否定しているわけではないが、直感や信仰の大切さを感じていなければ人間として生きていることの最大限の発揮ができないということを言いたい。本来、人間はスピリチュアル、精神的、霊的が本質であって、全ての人はこの世に生まれた目的を持っている。それを達成、乗り越え成長するために様々な計画をして来た、そして死後に天国に戻り、また繰り返しこの世に生きると信じた方が幸せになると言いたいのだ。
一方で、この世に縛られすぎてこの世の見えるものしか信じない、証明されたものしか信じないようであれば、物質社会に飲み込まれて自らも物質同様に期限が来たら朽ち果てて終わりという考えのドツボにはまってしまうことになる。それでは、はっきり言って人間としては自らが発揮できる能力の大半を抑えていると言っていい。勿体無い話である。
そうではなく、人間として理想の生き方は、この世的なところと霊的なところの両輪で生きることが大事なのだ。そうすれば、この世的に努力をしていれば直感(インスピレーション)としてあなたにとって相応しい素晴らしいものが与えられるのだ。これには信心も忍耐力もいるが、必ず何かしら与えらえる。
筆者はこの事実を経験済みであり、これからの未来に進むべく道もしっかり見えている。映画の映像のように観ることができている。その霊的な力、存在を世の中に証明するためにも今はこのブログを書いている。
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