なぜ苦難や困難ばかりの人生なのだろうか。

苦難や困難の最中に他人が順風満帆じゅんぷうまんぱんな人生を送っているのを観ると、羨ましくなって

きます。何で自分にばかり、苦難や困難なことが降りかかってくるのかと天を恨みたく

なる気持ちもあるかもしれません。

 

苦難や困難は乗り越えていくことで、人間が大きくなるとは言われているものの、死んで

しまえば何の意味もないではないか。

それに短い人生だから楽しまなきゃいけないと言っている人が多いのに、いつまでも

苦難や困難が続いて、楽しむどころではなくそんをした気持ちもあるのではないでしょう

か。

しかし、人生の苦難や困難には、本当は大きな意味があったのです。

苦難や困難は何のためにあるのか

結論から言うと、苦難や困難は「この世」に生きている以上避けることはできないのです。

それは、魂にとって成長するために絶対必要なものだからです。

 

たとえば、かたなを鍛えるために火に焼入れて叩く行為や、刀を磨くための砥石といしのようでも

あります。

刀は、何度も高熱で焼いて叩いて強度を上げますが、鉄の粘りがでてしなやかさが生ま

るまで叩き上げるのです。

簡単に折れてしまわないように、刃こぼれを起こさないように何度も火に入れて叩き、

そして出来上がりますが、放っておくと直ぐに錆びて使いものにならなくなります。

だから砥石で磨くことをします。

「この世」の人生においても、苦難や困難はこのように叩かれるような辛い時期を過ご

して耐えて、乗り越えて人としての魂(心)が成長していくように神が仕組んでいる

のです。

苦難や困難は神の仕組みでもある

たとえば、自然の中にも、そのような神仕組みがあります。

竹の場合は、ふしというものがあるから高く高く成長していきますが、

節の部分が苦しみのところでしょうか。そこを乗り越えればまた成長していきます。

 

昆虫のセミに至っては、地上で羽化うかして飛び立つ期間は短いのに、地中では数年から

十数年の間、幼虫として数回羽化しているようですが、

寿命は非常に長いのに、日の目を見る時期がとても短いのです。

 

このように自然の中にも、苦難や困難と思えるものが存在していて

その時期を耐えて、乗り越えているから次へのステップがあり成長をしているのです。

苦難や困難は「志」の大きさでも変わる

人生の岐路というのがありますが、その時期には、必ずどちらかを選択しなければ

なりません。その選択は、失敗をおそれず挑戦しなくてはならない場面か、楽な道を

いく場面が用意されています。

この選択時には「志」というとても大事なものが必要になります。

この「志」が大きな人ほど、失敗をおそれず挑戦しなくてはならない場面を選び、

苦難や困難に立ち向かうことになるのです。

 

結果、苦難や困難を克服した人には達成感や幸福感というご褒美ほうびがありますが、

失敗した人は、何も無いかというとそんな事はなくて、「志」をもって挑戦したので

あれば、またいろいろなところから幸せになるチャンスはめぐってくるはずです。

苦難や困難の時、偉人の生涯を観ると勇気がもらえる

「志」の大きな人は、達成するには苦難や困難も大きく、セミの幼虫ように

土の中に潜っていて、日の目を見ない時期を耐えて乗り越えて、大きく

日の目を見るようにもなっています。

 

それは歴史に名を残した偉人の生涯を知れば、解るかと思います。

たとえば、イエスキリストはたった3年間の伝道しかしていませんが、現在世界数十億

人が信者になっています。その3年間の伝道以前は、セミの幼虫のように土の中で過ご

していたように思われます。

その頃に何があったかはすべてその結果に凝縮されているのではないでしょうか。

苦難や困難というものがあったとすれば、計り知れない「心の葛藤」というものがあった

と思うのです。

 

NHKドラマで「西郷どん」がやっていますが、西郷さんは何度も島流しを経験して

います。それこそ、死の極限まで孤独の中「心」の葛藤を体験したからこそ、いずれ

は道が開けてくるのです。

大きな志(自分のためだけではない)をもっていたから、歴史を築けるところまで

いったのでしょう。

 

孤独の中に耐える長い時期を過ごしているからこそ、大きな志がいずれは日の目を見る

ことになっているのです。

このように偉人の生涯を観てみると、ある意味、苦難や困難を耐えていく姿勢こそ、

自然の摂理に合致しているとも言えるのではないでしょうか。

人それぞれに苦難や困難が用意されていて人生の岐路にどちらかの選択をしなければ

ならないのに、楽な道を選んだとしたら自然の摂理に反していることになるのでは

ないかと思うのです。

苦難や困難はいずれも経験すべきもの

もうひとつの考えは、人それぞれの魂の成長する過程において与えられた苦難や困難

を選ばなければならないようになっているということです。

それは、人の魂は何度も「生まれ変わり」や「転生輪廻」を通して成長しているからです。

「この世」の人生で選択した結果が死後に評価されますが、大きくは前世の結果が今世

であり、今世の結果が来世にあるわけで、すべては原因結果の法則の中にあり、

因果応報の中に生きているとも言えるのです。

 

今世に苦難や困難を乗り越えれば、次のステップとして来世にもう一段高い苦難や困難

があるかもしれません。いずれも乗り越えられるはずだからと用意されているのです。

しかし、今世に苦難や困難を乗り越えられなかった場合は、また同じようなレベルの

ものに再挑戦しなければならないかもしれません。

 

楽な道を選んだ人は、いずれもその苦難や困難から避けたのだから成長するべきせっかく

のチャンスを無駄にしたとも考えられます。

同じ時代、同じ国や環境、状況、人間関係などにおいて、チャレンジする機会は二度と

ありません。死後には、かなり反省しなければならないでしょう。

 

しかしながら、魂は何度も生まれ変わりを経験している中で、原因結果の連鎖において

その魂がさまざまな場面での苦難や困難を課題としてクリアしていくまで続いていく

のです。

苦難や困難は考え方次第で違いがでる

このように人の魂は何度も「生まれ変わり」や「転生輪廻」を通して成長していること

が信じられる人にとっては、苦難や困難を耐えて乗り越える意味が理解できたかと

思います。

しかしながら、現在の日本人の多くが「人は物質の固まりだから死ねばすべてが終わる」

という誤解した考えを持っていて、かなり危険なところまできているのです。

それを信じている人は、何のために苦難や困難をしなければならないのか、

死んでしまえば何の意味もないではないか。

それに一度きりの短い人生だから楽しまなきゃいけないのに、いつまでも苦難や困難

が続いて、楽しむどころではなく損をした気持ちになり、できれば楽な道を選びたい

のではないかと感じてしまいます。

どちらかというと人と比較した損得勘定そんとくかんじょうで生きてしまうように思います。

 

「人は物質の固まりだから死ねばすべてが終わる」と考えは、悪いことを考えている人

には、とても好都合な思想であり、自分さえ得すればいいというようになります。

このように比較すると、どちらが素晴らしい思想であり、生き方であるかは、解るか

と思います。

基本的な思いや考えが、「神や神仕組みを信じている」という人の生き方と

「人は物質の固まりだから死ねばすべてが終わる」という人の生き方

では大きく違ってくるのです。

神と悪魔の考えはどちらかというとはっきりしているでしょう。

苦難や困難は降りかかることもある

これまでは、人として魂の成長として苦難や困難を乗り越えることの大切さをお伝え

しましたが、自分の廻りの環境、社会においても苦難や困難はあり、突然降りかかって

くることもあります。

自然災害などはそうですが、人為的な部分においては国の選択次第で、多くの人を

不幸に巻き込む戦争などもあります。

 

これは、国の政治を司る人達の思いや考え次第ということになってしまいますが、国の

政治を任せる人を選挙により選んでいる人達は国民であるので責任は国民にもあること

になります。

しかし、今の政治の世界においては国を幸福に導く考えがないように思います。

天下取りや票取り合戦、権謀術数けんぼうじゅつすうなど技術的なものに走り、人の揚げ足取りに明け暮

れて、何が国民を幸福にするために大事なものであるかが見えていないのが残念でなり

ません。

本当は国民が声を大にして言うべきことがあるのではないかと思うのです。

「国を思うがあるのか」「日本をどのようにしたいのか」と言うことをです。

 

今の政治を司る人達は、別の意味の苦難や困難をわざわざ生んでいるように

見えて仕方がありません。

その大きい原因は、達観できる世界観をもった器の大きい人がいないということ

なのかもしれません。

もともと日本は神が創った国であることも信じていないし、明治天皇までは信仰心を

もった政治家が国を治めていたことも理解していないのではないかと思います。

現在は信仰心がある人が政治の世界にいないようなので達観できるはずはありません。

達観できる世界観をもつというのは高級霊や神の目を、考えを授かっている

ということなのです。

苦難や困難は国の舵取り次第で大きくなる

国の舵取りが間違っていれば、国民は必ず不幸になります。

原因あれば結果があります。

国も人も「因果応報」の法則からは逃れることはできないのです。

そのためにも日本国本来の理念(神の国)に立ち戻って考えるべきだと思うのです。

 

「人は物質の固まりだから死ねばすべてが終わる」のではなくて、

「人(魂)は永遠に生きているし、生かされている」ということをです。

 

「人は物質の固まりだから死ねばすべてが終わる」という考えは、唯物論といって

共産主義国の基本的考えにもなっていて、このままいけば将来、恐ろしい現実が

この日本にも待ち受けています。

自由の抑圧、人権無視の思想であり、神を否定している思想だからです。

 

そのような思想をもった国や大国が隣りにあり、そこの独裁者が着々と思う通りに

自己実現しようとしています。

それなのに神が創った日本は唯物主義国に感化されて、浸食されて本当にいいので

しょうか。

将来大きな苦難や困難が、国民に降りかからないようにするのが、本当の政治家の

使命なのではないでしょうか。

苦難や困難を克服したところに本当の幸せがある

死後に一生を振り返って「幸せだった」と言えるかどうかは大変重要です。

 

死後に「あなたは、今回の人生で何をしてきたのですか?」

「それであなたは何ができる人なのですか?」と聞かれて、堂々と人生を語れて

他人(霊)を感動させることができるかどうかを考えてみてください。

仮に「困ったことや苦しみや失敗も無い人生を歩みました」と言う人がいたら、

何もしてこなかったということを言っているのと同じなのです。

「いくつかの苦難や困難はありましたが、なんとか耐えておかげさまで乗り越えること

ができてとても幸せです」と言えたら、がんばったね!と詳しい話を聞いてくれて

感動してくれるかもしれません。

 

人生には、人それぞれの苦難や困難が用意されているのですが、避けて通れば経験する

こともなく、魂の器を大きくする機会を逃してしまうのです。

 

近頃は、大多数の考えに迎合して小さくまとまった人生を送る人が多くなっている気が

しています。

自分に火の粉が降りかからないように何も起こらないよう、単に平和を抱きしめて生きて

いる人、責任から逃げている人や社会や他人に無関心な人を多く目にします。

 

苦難や困難をわざわざ奨励しょうれいする必要はないとは思いますが、どのような人も

死後には、何らかの形で人生の責任は取らなくてはならないのです。

苦難や困難は神の慈悲

苦難や困難に出会うことは試練でもありますが、現時点で学んできたこと、努力してきた

ことで智慧を使って克服する機会が与えられているということは、神から与えられた

慈悲でもあるのです。魂が一段飛躍、成長するための試験なのかもかもしれません。

 

苦難や困難に立ち向かっている時に「神」に出会うチャンスが用意されていることも

覚えておいてください。

それは霊的覚醒の機会でもあり、信仰に目覚める試金石でもあるのです。

 

苦難や困難に立ち向かっていく時は、ひとりではなく神とともにあることを感じ取ること

がとても大切なことなのです。

私たちには今日も明日も困難が待ち受けている。それでも私には夢がある。

(キング牧師)

 

本当の人間の価値は、すべてが上手くいって満足している時ではなく、

試練に立ち向かい、困難と戦っているときにわかる。

(キング牧師)

 

生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。

転ぶたびに起き上がり続けることにある。

(ネルソン・マンデラ)

 

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。

(岡本太郎)

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