現代では「反省」「懺悔」の本当の意味と効果が、わからなくなって来ている
と思います。
それは、現代社会が物や雑多な情報で溢れていて、頭脳を心という間違った解釈
に捉えているせいで、『心』が最も重要であることが見えていないからです。
「反省」「懺悔」が霊的に目覚める方法であり、悟りへの入口でもあります。
それが、仏典にも聖書にもあるのです。
その目覚めの道が「第二の人生」でもあります。
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聖書や仏典に懺悔の重要性が示されている
キリスト教では、教会で牧師のもとで懺悔をするという習慣があります。
罪の告白をして悔い改める事を約束して、神に許しを乞います。
仏教でも懺悔という反省法が説かれてる経典もあります。
もともと懺悔という言葉は仏教からきたといわれています。
キリスト教でも仏教でも宗派によっては、
今でも懺悔の方法を取り入れているところもあるようです。
時代と共に懺悔の教えの本質が形骸化している
しかしながらキリスト教や仏教にしても時代と共に懺悔の教えそのものの本質が、
形骸化してきています。
そのせいで仏陀やキリストが本当に伝えたかったことから離れてしまっているように
思います。
2000年以上も経っていますので、正しい方法を実践するというのはその頃の仏陀
やキリスト、そして弟子でも生きていなければ難しいことです。
しかし現代、一般的に反省は道徳的であたりまえのこととして捉えられています。
もっとも、人に被害をおよぼして罪を犯した者が反省をして悔い改めて
立ち直るようにする為の重要な位置づけでもあります。
深い懺悔や反省には霊的、スピリチュアルな感覚が伴う
たとえば法華経の『観普賢菩薩行法経』には懺悔の最中に霊的で神秘的な
ことが起こっていることが書いてありますが、
この経典は別名「懺悔経」ともいわれています。
この経典に書いてあるような霊的で神秘的なことを伴わなわなければ、
あとに引き継ぐ伝道者や翻訳家は、理解不能になり、リアルに訳して
「後の世」に正しく伝えることができません。
普通に文章とおりに訳すならば、意味不明な言葉や情景がでてくるので
理解ができないはずです。
本当は、お釈迦様が弟子へ法を説く時において、霊的現象を見せて
証明していたところがあることまで理解ができないかもしれません。
同じような霊的経験をしなければ、お経の本当の意味は解らないのです。
直弟子までは理解したとしても、お経が次から次へと時代を越えて伝わって
いく中で霊的部分がごっそり抜け落ちてしまって現代では道徳的な部分が
主に伝わってきているところもあります。
しかし、その本質が単なる道徳的ではなく人間の普遍的、根源的な部分にかかわる
問題としたら形骸化してしまうというのは、人類にとってどれだけマイナスなこと
なるのか考えさせられます。
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懺悔や反省は「心」にどのように物理的な影響があるのか?
「心」というのは、大きくは霊、魂、意識の中心で人間の本質そのものでもあります。
人間の本質は肉体ではなく、「霊」が本当なのです。
そのように言われても認識は難しいところかもしれません。
現代は、物質中心の社会であり精神的なところがあまり重要視されてないせいで
「霊」という言葉すら、オカルトのように言われていますが、
実は人間は「霊」が本当の姿で、「心」が思考の中心なのです。
それを理解するための方法が、仏典や聖書にある「懺悔」という方法なのです。
「心」は胸の心臓あたりにあって、目には見えませんが、直径30センチくらいの
透明で輝きのある球体をしていると想像してみてください。
「心」は表面意識と潜在意識があるように聞いたことがあると思いますが
「心」は思考の中心部分であって「この世」では表面意識が主体になり潜在意識からの
インスピレーションをもらって生きることが、人間本来のあり方でもあるのです。
「心」が透明で輝きのある球体であるうちは、本来の生き方とおりになっているの
ですが、
たとえば、心の中で悪を念う(おもう)だけでその透明で輝きのある球体の「心」に
陰のような汚れがついてきます。
現実的に悪いことをしなくても、「心」で思うような些細ともいえるようなことが
積もりに積もった時に汚れてくるのです。
薄汚れてきた「心」の表面意識が不透明になって潜在意識との交流を遮断するように
なってくるのです。このようになるのは、大抵は物心ついた頃から始まっています。
薄汚れた「心」を放置していると、悪を思うだけではなく行動してしまうきっかけにも
なり、理性が弱ければ悪いことをしてしまうのです。
「悪」とは、自分がされて嫌なことを人にすることです。
それは行動を伴ったことだけではなく、念いや言葉も同じことなのです。
そのように「この世」では、絶対に「悪」を侵したことのない人はいない
と思います。多かれ少なかれ「心」を汚すことをしているのです。
それと自身の「心」が穢れていれば、他人を汚れた色眼鏡で観るように
なり、人を悪く思うようにもなります。
だから、反省や懺悔というものが必要になるのです。
「反省」というのはまだ薄汚れた「心」をクリーンにするための
方法で、この反省は習慣化することがとても大事になります。
しかし、積もりに積もったこびりつくような汚れが「心の表面意識」を覆って
潜在意識を遮断するようになった場合は、反省ではなく懺悔が必要になります。
これが仏典や聖書に書いてある真理に目覚める方法でもあるのです。
深い懺悔や反省によって、心の曇りを取り「心」を磨いた時
「心の神秘性」「心のメカニズム」「心の法則」を悟るようになってくるでしょう。
物理的には、表面意識がきれいに透明になることで輝きはじめ、潜在意識と
交流が再開していきます。
潜在意識というのは、霊的世界、見えない世界に存在する「守護霊」でもあります。
懺悔や反省には善悪の判断基準がいる
このように物理的に「心」の陰の部分を取り払うのが、懺悔であり反省という行為なのです。
しかし、この懺悔によって「心」の汚れや曇りを取り除いていくには
何が悪くて何が良いのかという正義の観点からの「善悪の判断」が必要です。
実際、自分で懺悔、反省をする場合、どこが悪いのか判断基準、ものさしがないので
難しいかもしれません。
それには、「知識」が不可欠になります。
なぜなら小さい子供には、よくない事は叱りますが、
叱られなければ子供はなぜ悪いのかが、解らないからです。
それはそこまでの知識がないからです。いわゆる善悪の知識です。
人によって学問的、社会的、宗教的や日常などの知識の多さによって
善悪の判断基準の違いがでてきます。
それに国によって文化や考え方も若干違いがありますので
よい事、悪い事の判断基準の違いというものもあるでしょう。
ただ、人にはもともと「良心」というものが潜在意識に植え付けられて
います。
懺悔や反省のきっかけ、機会に必要なのは、見えない世界からあなたの
人生を隅々まで観ている人(霊)が存在すること信じることが大事です。
具体的方法についてはまた、他の記事で書きます。
懺悔や反省こそ「第二の人生」への入口
懺悔によって「心」の曇りを取り除き「心」を浄化させることによって
潜在意識の扉が開いていきます。
そして、潜在意識によって人間の本質が「心」であり「霊」であることが
理解できて、これまでの人生の意味がわかってくることになるでしょう。
そして、新たに「第二の人生」が始まっていくのです。
この「第二の人生」とは、定年を迎えて新たな人生を送る意味とは
全然違います。
人として、この世もあの世も貫いた生き方ができるという意味での
「第二の人生」になります。
まとめ
・懺悔、反省とは、心をきれいにするための行為です
・歴史的宗教を起こした仏陀やキリストが懺悔をとおして
・人間の心が偉大であり、霊的であることを多くの方に悟ってもらいたい
・と実践を促していたのです
・実践したならば、その後の人生が必ず幸福になると信じています
この幸福は「この世」のものだけではなく「死後」にも繋がっていくでしょう。
・「第二の人生」を本当の意味で謳歌できることでしょう。